デドアラ以降の到達点としての『Starting Over』
昨日とその前に書いた例のように、「さよならパーティー」は、全体として前作町丘に見られたネガティブなトーンを乗り越えた、と言えると思います。このことを、もう少し遡りながら考えます。
アルバム『DEAD OR ALIVE』を機に、エレカシは極めて意識的・自覚的に自らの存在を確かめる作業を始めたのだと思います。それが、サウンド面ではバンドサウンドへの回帰であり、歌詞の面では宮本自身の徹底した内省であり、ビジネス面ではマスプロモーションの放棄だったのでしょう。そして『俺の道』、『扉』、『風』とそれを続けたところ、その後の『町を見下ろす丘』では、宮本自らが「ネガティブが前提だろ」というようなトーンとなってしまいました。
これらの作品の流れを、思い切って図式的に書くと、以下のようになると僕は思います。ただし、(1)と(2)、(2)と(3)の境目は必ずしもこのようにはっきりはしていません。
アルバム | 歌われているもの | |
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(1) | デドアラ・俺の道 | 本来行くべき目的地や、あるべき「俺の道」というものがきっとあるという思い。そこに到達できないのではないか、という焦燥感。自己の存在を探る内省の開始。 |
(2) | 扉・風 | 内省の深まり。歴史の中での自己の位置づけ、両親との関係、幼少期の記憶、友人との関係、未来に渡る時間軸の中での自己の位置づけなど、自分のルーツや内面への実存的な沈降。 |
(3) | 町丘 | 内省のはてに、(1)のようなあるべき場所、道筋、夢、目的、といったものがリアルさを失い、それへのこだわりをも「忘れてしまった」という状態。ネガティブであることが前提されていて、それでいいからたゆまず進め、といった状態。 |
こうやって思い出して書くだけでも苦しくなってきます。この5枚にはどれも忘れられない楽曲があり、また本当に骨身を削って解き放ったような凄まじいパワーの曲もあるわけですが、全体としてこの数年間は、「もっともっと深く俺のココロへ」どこまでも入り込んでいく宮本を、ただ見るしかないといった息苦しい気分がずっとつきまとっていました。
だからこそ、これを乗り越えた「さよならパーティ」とアルバム『Starting Over』が嬉しい。宮本が以下のように言っているのが嬉しいんだと思います。
ほんとにあの、希望が、音楽に生まれたことは、嬉しいです。 (Bridge vol.56 SPRING 2008)