まぬけなJohnny(3)

 この歌の歌詞が、「男の間抜けさ」を見事に表現していること、またそれは宮本にとって「過去の自分のダサさ」を表現する必然性があったからだということを書きました


 これに関して、もう4ヶ月も前に、以下のように的確なブログ記事が書かれています。

自分ひとりの生き方とか、感じ方とか、時間の使い方とか、それは宮本さんのように「仕事」とか「戦い」という言葉で表してもいいのだろうが、そういうことのために、一番大切なはずの人、その人がいないと自分はどうにもならないというような、生きていく基盤のような人のことを、おろそかにしていたという反省の歌だ。
エレカシ日記 笑顔の未来へ


 僕はきっとこのとおりだと思うのですが、ではなぜ今、宮本にそういう反省が起こったのかを、「逃げ出したヒーロー」という歌詞部分と、以前に書いたドアラ以降の歌詞の流れの中で考えてみました。


 「逃げ出したヒーロー」という言葉は、いかにもダサいです。ダサさの象徴みたいな感じです。ただ、宮本がここでこのフレーズを歌ったのは象徴としてではなく、「どうすんの女の視線さけてオーライ」といった自分の姿のことを歌っているのだと思います。


 つまりこの時点で宮本はヒーローであり、ヒーローとしての「自分ひとりの生き方」を貫こう、貫きたいとしていた。それは僕らが、過去の多くの楽曲たとえばまさに“真夜中のヒーロー”で知ることのできる、孤高で美的で時に痛ましいような、あの生き方だったと思います。
 一方で現実の生活の中で女から将来のことを聞かれた時には、葛藤のすえ*1それを貫くことができず、つまり女との将来を明確に拒絶することができず、かといっておのれの美学も捨て去ることもできず、ごまかして視線をそらすことで「逃げ出した」というのです。


 そしてこの中途半端な振る舞いを自ら「ダサい」と言ってしまえるのは、まずは、そういった「ヒーロー像」がまさに「流れ星のやうに」墜ちてしまったから、つまりデドアラ以降の内省の深まりを経て宮本の中でリアルさを失ったからなのだと思います。ただし、町丘ではそのようなヒーロー像の喪失が愛惜とともに歌われていながら、過去それに向かった自分*2向かって向かいきれなかった自分を「ダサい」と言い切ることはありませんでした。


 その後、まさにこの“まぬけなJohnny”で、過去の自分と決別するかのようにことさら戯画化して「ダサさ」を歌いきったことは、“さよならパーティー”の「もう抜けようぜ」や“Starting Over”の「鐘が鳴る さあいくぜ」につながる強力なパワー、きっとヒーロー像を目指していた時のものを上回るようなパワー、その存在を示しているように、僕には思えました。


ライフ町を見下ろす丘STARTING OVER

*1:この「ヒーロー像」と現実の平面との葛藤は、たとえば“あなたのやさしさを何に例えよう”“暑中見舞い〜憂鬱な午後”を始めとするアルバム「ライフ」の楽曲で多く見られます。

*2:修正:向かったこと自体を「ダサい」と思っているのかどうかはまだ分かりません。