さよならパーティー(4)

再び、しつこく“さよならパーティー”です。末尾の歌詞に、人生の時間軸を表すものとして「道」という言葉が出てきます。これを頼りに、エレカシの変遷を辿ってみます。

 過去にも多くの歌で、この意味での「道」が歌われてきました。そしてそれによって歌われる時間軸のイメージは、移り変わってきていると思います。その移り変わりを、僕は以下のように解釈しています。

・現在と未来を結ぶ線分から、点へ
・点から、過去と現在を結ぶ線分へ

「現在と未来を結ぶ道」

 はじめのこれはつまり、運命論的な道、「俺には辿るべき道と到達すべき終着点がある」という信念にもとづく「道」です。「俺の道」で「オレは燃え上がる日を待っている、俺の道を」と歌ったときの「道」です。「真夜中のヒーロー」の中のそれも、同じ意味合いだと思います。

 また、アルバム「奴隷天国」まで遡ってみても、その中のまさに“”という歌では、「俺たちゃ なんで生きてんだ・・・ つきまとう 道なき人のつぶやきなのさ」という形で歌われています。ここでも、生きる理由=宿命=道という意味づけがなされています。それがこの時点では見失われているとしても、「道があるはずだ」というその信念に変わりがないから、あの叫びになるのだと思います。(ちなみにこの歌の終わり付近のシャウトは、僕にとっていまだに全曲の中で一番『来る』シャウトです。)

 こう考えると、前に書いたデドアラ以降の変遷の開始時点では、宮本にとって「道」とは運命・宿命、それは未来にある「どでかい何か」に向かって、険しくしかしまっすぐ伸びるもの、というイメージであったと僕は思います。そしてそれは特にエピック時代からも感じられるため、多分、10代・20代のころからずっと宮本が持っていたものだったのではないでしょうか。

「点としての道」

 それが『町を見下ろす丘』に至って、「点としての道」になった。それは終着点としての「どでかい何か」が「流れ星のやうに」墜ちてしまったために、そこへ向かう道が存在するはずだという信念をも喪失したという姿です。一方で過去についてはというと、「なんにもしてねえ」「忘れてしまった」といったような否定的な表現が目立ち、その時点の自分からは何か遠いもの、切り離されたもののような印象を受けます。

 そういうわけで、ここに至って「道」は「点」すなわち現在、今を示すだけのものになってしまったと思うのです。その切り離された現在の中でそれでもひたむきに、自身を勇気付けるかのように「今をかきならせ」「今、たゆまずに」と歌われているのだと思ったとき、ココロが震えたのです。前に書いたのは、そういう震えのことでした。

 その時間的な孤立、絶望のときを経て、アルバム『Starting Over』ことにこの“さよならパーティー”において、「道」は、「過去と現在を結ぶ道」になったのだと思います。

「過去と現在を結ぶ道」

「何度も何度も繰り返してきた さよなら
 俺の未来へと続く道 ココロからそう言える日がくる」

 この二行の間に、“が”という助詞が見えます。過去に繰り返してきたさよなら、それは過ぎた日々をはじめとする一切の過ぎたもの、それが他ならぬ自分の「道」なのだという認識。これは多分、他の200曲の中からは感じられなかった、新たに生まれたものだと思うのです。そして肝心なところは、それが未来へ続いているのかどうかは、今は言えないという点です。

 この歌をはじめ、アルバム『Starting Over』には、“俺の道”のような、未来へと続く道が超越的に存在することを信じそれが立ち現れるのを待っているという姿は、一切歌われていないと思います。“Flyer”にしても“俺達の明日”にしても、また“Starting Over”にしても、そこで歌われている未来への視線は、信念ではなく希望と祷り、未来そのものがあってくれという痛切な願いに過ぎないという意味で、町丘と同じような絶望感をつねに感じます。

 しかし一方で明らかに、町丘と違って、宮本はもう絶望を前提にはしていない、立ち止まっては祷らない。むしろ前に進みながら祷る、もしくは前に進むその一歩一歩がそのまま祷りになっているという気がします。それは、宮本に起こった何かによって、点になっていた「道」が少なくとも過去の方向につながり、それが間違いなく「道」を歩いているという確信を生んだためだと思うのです。それが未来へつながっているかどうかは、もはや、その未来に身を置かなければ分からないとしても。

 そういう意味で、「道」は「現在と過去を結ぶ道」になったと、僕は解釈しています。そういうものとしての確信が、“さよならパーティー”の「もう抜けようぜ」の力強さを生んでいるのだと思います。

ある詩とのアナロジー

 思えばこれは、高村光太郎の「道程」と同じような認識です。“俺の道”には「気魄のなき時間帯」という言葉がありますが、この詩にも「気魄」が出てきており、高村にとってそれは、「父なる自然」が自分にもたらすものでした。同じく「前に道なきこの道程」を進むいまの宮本にも、いずこかから、確かにこの「気魄」が充たされているのではないでしょうか。