宮本とベートーヴェン
先日の記事のコメント欄で「のだめカンタービレ」の話になって、宮本とベートーヴェンについても少し考えていたことを思い出した。19世紀的な話しの続きで書いてみようと思ったが、書いてみるとやたら長文になった。悪ノリしたような気もするが、とにかく掲載しておきます。
宮本とベートーヴェンとの接点は僕の知る限り2点ある。宮本がはじめて買ったレコードがベートーヴェンの交響曲第5番だったということと、「ライフ」製作時に小林武史が次のように言ったということだ:「宮本君の曲を聴いていると、生きているから悲しいんだよねぇ。ベートーヴェンみたいな曲の作り方をするよね。」
この言葉を知って以来、「ベートーヴェンみたいな曲の作り方」ってどんなのだろうと考えている。が、僕には作曲論は到底分からない。そこで別のアプローチとして、人間あるいは生き様そのものの比較をつらつら考えた。それで、この二人にはどこかしら(どちらも髪がぐしゃぐしゃということ以外に)、通底するものがあると思うようになった。それは以下のような3点だ。
1.青年期から壮年期にかけての心境の変化
共通するのは、独善的で偏屈ともいえる青年期から、苦悩を経て自己を減ずる心境にいたる、という流れだ。
ベートーヴェンは若い頃、例えば皇太子の車列が目の前を通るときに、「皇太子は何人もいるがベートーヴェンはひとりだ」といって頭も下げずに横切り、その場にいたゲーテを激怒させたような男だった。それが、「不滅の恋人」との結婚の断念を経て、経済的困難や聴覚障害の進行といった苦難の中、41歳になった時の日記には次のようなことを書いたという。
「おまえは自分のための人間であってはならぬ、ひたすら他者のためだけに。おまえにとって幸福は、おまえ自身の中、おまえの芸術の中でしか得られないのだ―おお神よ! 自分に打ち勝つ力を与えたまえ、もはや私には、自分を人生につなぎとめる何者もあってはならないのだ。」
転載するのも憚られるような熱情だ。でもこの述懐の前半は、宮本に重なる。「貴様らに聴かせる歌などなくなった」「女はペットのようなら飼ってもいい」とまで歌いきっていた宮本はその15年後に、大失恋、幾度かの挫折、肉体の衰えの自覚を経て、「愛する人のためのこの命だと気づいた」と、あんなにもしみじみと歌った。僕はこの一言が頭から離れない。それは、「ひたすら他者のためだけに」と同義なはずで、そのとき宮本もちょうど40歳という歳だったのだ。
2.「中断または拒否」という力強さ
上で書いたような感慨を経て、ベートーヴェンは畢生の大作となる交響曲第9番を作った。この曲は次のように解釈できるという。第1、第2、第3楽章がそれぞれ、「葛藤と絶望」「諧謔」「浄化」を表すが、第4楽章の冒頭でそれら全ての主題が、改めて「中断または拒否」される。そのうえで、「これらではない、もっと喜ばしい調べを」という言葉とともに、あの歓喜の主題が歌われ始める。僕にはなにより、この「拒否する」という部分の低音弦の響きが印象的だ。それは切り離せない過去をあえて前景化しつつ拒否するという、力強さだ。
そして、宮本も同様に、「前景化しつつ中断・拒否」しているのではないかと僕には思える。
今作では、ことさら「傷」を歌うことで過去をあえてよみがえらせた。と同時に、「町を見下ろす丘」の時期に到達したという達観・展望や、それと裏腹に過去を乾いた「嗤い」の中で振り返る日々を、つまりは絶望的な気分を、「もう抜けようぜ」と言って拒否した(「さよならパーティー」の僕なりの解釈)。
そして、「平成理想主義」などでの静かな浜辺や、もしかすると「武蔵野」の木々と川の地平線といった光景、「友達がいるのさ」の漆黒の大都会といった光景をも、幻想的で逃避的なものとして「取り残された浜辺」という言葉の中で拒否した(「Starting Over」での僕なりの解釈)。
そのようにして「くすぶる胸の思い」をはっきりと中断しながら、宮本は視線を外に向けて「他者のために」歌おうとしているのではないか。「他者のための」明るい歌詞を乗せた、「他者のための」メジャーコードを、4枚のシングルで堂々と鳴らそうとしているように思える。
だから、インタビューでの「明るい歌を歌います、僕は」という宣言が、僕には力強く聞こえる。
3.創作態度
音楽史の中で見ると、ベートーヴェンは「古典派音楽の集大成」かつ「ロマン派音楽の最初期」に位置づけられる。それまでの古典派が形式の中でいかに美しく奏でるか、という「様式美」の世界だったのに対し、ベートーヴェンは「和声のよりいっそうの巧妙さや流麗さ、ますます長く、ますます力強い旋律、表現の基礎としての詩情、文学と音楽の混淆」の追究の端緒となったという。2つの音楽史上の区分の狭間にあって、そういう自由な表現方法を先駆的に用いたからこそ、「その人生がその作品と直接深く関連するようになった最初の偉大な作曲家」となり得たのだろう。
一方、「人間性と音楽との密なつながり」ということであれば、一気に卑近になるが、それは僕がエレカシの歌を聴いていて感じることでもある。曲、歌詞、歌唱、演奏が、宮本という人間そのものを表しているかのような感じ。ロックの文法といった各種の形式に収まろうとしない感じ。怠惰や悔恨といったどろどろしたもの、憧れや希望といったきらきらしたものが、その時々にそのまま表現されるといった感じ。あらゆる意味で、偽りのない感じ。生き方がそのまま楽曲になっているといった感じ。
だからこう考えられる。この二人にとっては「生き方がそのまま音楽になる」のだとすれば、冒頭の小林武史の言葉、「ベートーヴェンのような作り方をしている」のは、つまり宮本が「ベートーヴェンのような生き方をしている/しようとしている」からなのかもしれない。
以上、あくまで「のような」という話だ。いくら宮本浩次という人物に魅かれているとはいえ、ベートーヴェンのように偉大だとはとても言えない。その時代背景や抱えたハンディキャップの大きさ、また時代に対して成しえた業績いずれを見ても、桁違いには違いない。しかもベートーヴェンはそれらすべてをたった一人でやったが、宮本はそうじゃないだろう。というか、そもそも僕には、そんな高所にたった評価ができようはずもない。
しかし、この二人の人物には、なにかがあると感じる。そして、それは無理筋ではないんじゃないかと思う。文豪をはじめ過去の「偉人」の生き方に強い共感を持ち続けた表現者が、気づけば「偉人」的な生き方をしているということは、十分にあるのではないだろうか。そして、宮本にはいまだ「歓喜の歌」のように堂々として広く世に残っていく作品はなくとも、そういう意味での「偉大なポピュラリティ」を求めているというのが、最近の心境ではないか。そういう勝手なことを、つらつら思った。