まぬけなJohnny(2)

(1)からの続きです。歌詞はこちら

 宮本はROJのインタビューで、「男のまぬけな、ださい感じを表現したかった・・・突然火鉢で生活はじめるのも間抜けといえば間抜けなわけで。」*1と話しています。


 僕は、これは見事に実現できていると思います。それはもちろん、歌い方とメロディー、またエレカシ独特のブルージーな感じの演奏によるところも大きいと思いますが、歌詞の面では以下のような点によるのではないでしょうか。

  1. 1番の歌詞で、「先日」という言葉の違和感が、「しどろもどろ」の「ダサさ」につながる。
  2. 2番の歌詞で、「俺 とび出して」の一言で、忘我、大慌ての「ダサさ」が見事に表現されている。
  3. 2番のサビでの「こんなものかい 結局」は、もうこの言葉自体がひたすら「ダサい」。
  4. 「〜タクシー拾って」「〜走らせ」「〜コーヒー飲んで」、これらの断片的な言葉で、男の呆けたような気分が感じ取られ「ダサい」。


1について。はじめてこの「先日」部分を聞いたとき、にやけてしまいました。彼女に使わねーだろ普通、と。でも言葉をあわててつなぐとこうなりそうです。不遜ですが、うまいなーと思ってしまいました。


2について。森鴎外の「寒山拾得」中の以下の部分、「水が来た」は、名文として知られています。

閭は少女を呼んで、汲立の水を鉢に入れて来いと命じた。水が来た。僧はそれを受け取って、胸に捧げて、じっと閭を見詰めた。清浄な水で好ければ、不潔な水でも好い、湯でもお茶でも好いのである。

 (僕はこれを三島由紀夫の「文章読本」で知りましたが、Web上に同様の論評がありました。)
言ってしまえば、「俺 とび出して」にも、これと同様の無駄の無さと凝縮された時間を感じさせる輝きがあると、僕は感じます。


3について。「こんなものかい 結局」という感歎は、とっさにはよく意味が分かりません。でもこの言葉が、何か期待していたものが裏切られた、期待はずれだったときに出るものだと考えると、これはこの男にあった女への甘えの表現だと分かります。つまりこの男は、女性が持つ将来への不安を知りながら外で遊びまくり、かつそれをこの女性が黙認し続けるだろうことを期待していたわけです。
 こういう「ジゴロ気取り」はしたくてもできない男が大半だと思いますが、形は違えど、女性に対し心的負担をかけていることを自覚しながら、その意に応えないという、男の独善的な甘え・依存はかなり大部分の男性が経験しているでしょう。そして、そういう甘えも、またそれを拒否されて「こんなもんだったのか」と思ってしまうところも、振り返ればひたすら「ダセエ」のです。


4について。「お前が好きだった」も含め、これら2〜3小節の短いフレーズが、曲の終わりに向けたサビのコード進行8小節の繰り返しの中で、途切れ途切れにでてきます。この中途半端な、解決せずに終わる感じは、曲が終わっても「ダセーな」という余韻を残していると思います。


 これら以外にもこの歌では、「ハレルヤ」や「GOGOGO」など、「男のダサさ」を表現するためにかなり工夫して歌詞が作られたように感じられます。それは宮本に、「過去の自分のダサさ」を表現する必然性があったからだと思われますが、それはなぜか。これは、歌詞の中でひとつだけ他のものと異質に感じられる言葉、「逃げ出したヒーロー」と関係あるかもしれません。ということで続きます。

*1:手元に記事がないので、あとで正確なコメントに差し替えます。