Sky is Blue

「昇れる太陽」には11人の宮本がいる。と思いたくなるくらい、一曲一曲の歌い方が異なる。あえて変えているのではないかってくらいに。なぜだろう。

11曲は、みんな同じことを歌っているのかもしれない。それをなんとしても伝えたいという気迫が、こういう歌唱の千変万化を呼んだような気がする。全方位から核心に向かって突撃していく。そこには考え抜かれた精密で立体的な作戦があるかのようだ。すべてはその一点を目指して。大手と絡め手。地上戦と空中戦。

開幕を告げる「Sky is Blue」がのっけからすさまじい。スライドギターにあのリフとくればどうしたって頭に浮かぶのはBeckだがしかし第一声から聞こえるまぎれもない日本語、しかも音域ぎりぎりのハイトーンが、それを吹き飛ばす。ヒラヒラヒラとリズミカルに舞い落ちてくるメロディー。英語化した日本語ではなく、実体的・文法的に、まぎれもなく僕の母国語である日本語を乗せたメロディーが頭に飛び込んでくる。日本語の歌詞が、こんな雰囲気で響くだなんて!

昨年、歴史前夜をつかまえてこんなことを書いた:「楽曲において歌詞とはなんなのか、それは全体性をそぎおとす過程に過ぎないのか、その代わりに付け加わるものがあるのだろうか」
これは結局、「歴史前夜」にはあった“ノリ”が「歴史」にはなくなったと控えめに愚痴っていたのだった。(もちろん、それと引き換えに付け加えられたものが「あった」)「Sky is Blue」は、この僕の素朴な疑問への、まさにこれ以上なく明瞭な答えじゃないか。

「じーぶんをはあくでっきーにーなーやんでー」
「めっせーはおっれーにりっそそーぐかーりのーしゃわー」
「しょうねんのこーろれーはあんなーにもーのるーわしーくゆううつだった」

西洋音楽のリズムからあぶれた日本語の音節は、そのまま音符のはざまに叩き込んでしまう。装飾音というのではなく音符にのらない「声」として。そうして生まれたフレーズは、無風の中を木の葉が舞い落ちるように、ヒラヒラヒラと右へ左へ。気持ちいい。「り」が好きだ、「り」が。

そのようにして言葉とリズムを半ば強引に一致させることで、宮本の情動がそのまま歌声にあらわれる。だからこそ、一曲を通じてこんなにも自由自在に、いろんな表情の声で表現がなされるのだろう。一音ごとに相貌を変える声は、まさに「すごい表現力」だ。その声が「憂鬱だった」と歌えば憂鬱だったのだ。「嬉しときゃ流れ」と歌えば本当に流れていくのだ。見上げれば本当にスカイイズブルーなのだ。

この歌は、「ガストロンジャー」を嚆矢として音程なき言葉を自在に歌ってきたエレカシの、これまでの軌跡の先に生まれた新しい形の歌だ。もうちょっと聴きたいが、いかんせん短い。