人生の午後に
「さよならパーティー」が乗り越えたものの例その2。
1ファンの僕が言うのもナンですが、名曲だと思います。曲調と歌詞と歌声がはまっていて、何度聞いても聞き入ってしまいます。
さて宮本はこの歌を「恋愛の倦怠」に関係付けて解説しています。
具体例として例えばもしかすると、これは恋人といる場面を描いているのかもしれない。曲とマッチしていると思います、歌詞がすごく。
(Exciteインタビュー “町を見下ろす丘”全曲解説)
『町を見下ろす丘』でも、「さっき入れたお茶が冷めてしまった(入れ直さなきゃ)」(「人生の午後に」)どうなるんだろう僕等、みたいな歌があって、それも恋愛の倦怠感みたいなものを歌っています。
(MOOCSインタビュー)
まさか本人の解説にいちゃもんをつけるつもりはないですが、この「恋愛の倦怠感みたいなもの」がメインに歌われているとは、僕にはどうも感じられません。(本人も、それ「だけ」が歌われているとは言ってませんし。)
思ひ描いた日々と今の自分を重ねて
窓の外を眺めてゐた 重く垂れ込むる雲
人生の午後に
このヒリヒリするような痛々しさ。それとこれを歌う宮本の声。恋愛の倦怠というアンニュイだけでこうなるでしょうか。僕としては、この歌の根底には宮本の極めて個人的で実存的な悩みがあり、それを、そこにたまたまいた、比較的長く付き合った女性との関係に投影させて歌っているような気がします。
そうして考えると、以下の部分にある「つまらない」は、“さよならパーティ”の「こんなのつまんねえ」と同じだと思えてきます。
うれしいこと悲しいこと色々あるけれど
つまらないよ全部全部 色あせて見えるから野望は疲れ果ててる
夢にゃあ傷が付いてる
思ひ出 時に鮮やかすぎて
「日常の生活が全部だと知ってたけど」、その全部は色褪せて見え、野望が生き生きとしてあり、夢が輝いていた時の思い出だけが、色鮮やかに甦る。そして「僕らどこへ行くの」かは分からないけれど、それでも日々うれしかったり悲しかったり、表層的には感情豊かそうに過ごせてしまう暮らしがある。でもつまらない。
そういう日常から「もう抜けようぜ」と力強く言えたのが“さよならパーティー”であり、アルバム“Starting Over”だと思います。