宮本浩次、ドストエフスキー説

自分のことを薄情だと思う。
2年近くこのブログも放置していた間、ライブ休業となっても深刻に捉えるでもなく、ゆるりと復帰を待っていた。
映画も見れなかったし、欲しいなと思ったライブ集DVDもまだ買ってない。
ここひと月ここに文章を書いていた時の熱なんて、どこを探してもなかった。


自分の生活がノリノリであったり、逆に瀬戸際で危機的状態の時は、あとになって驚くほどエレカシが遠い。
そして決まって、それらがひと段落しそうなタイミングで強烈に現れてくる。


この感覚は、本棚を眺めていてなぜかドストエフスキーやらに手が伸びる時に近い。
仕事が面白くて仕方ない時には、決して地下室の手記には手が伸びない。
飯の種に逼迫している時に、間違ってもカラマーゾフを手に取ることはない。


それは時が来るまで、本棚の中にひっそりとただある。
そして何故かある時ふと手を伸ばし、熱に浮かされたように虜になってしまう。
今のエレカシ熱と同じだ。
宮本浩次ドストエフスキー説である。


エレカシを貪るように聴く時期は、何かが違っている。
何かがうまくいってない。
その相関関係は明白だが、さて問題は、その因果関係である。
エレカシを聴くからうまくいってないのか。
うまくいってないからエレカシを聴くのか。


はて、うまくいってるってなんのことだったろう。


何を慌てて、不様に転がってるんだろう。
何がしたくて、何をしてたんだろう。
40を過ぎてまで。
と考え始めてしまうのは、エレカシに捉えられているからか。


根っこのところを考えざるを得なくなる。
それはエレカシが、何か生きることに関わる根本について表現しているからだ。
だから、宮本浩次ドストエフスキー説。
どうしたいその顔、といつも本棚からこちらを見ている。