宮本の歌を聴くということ

エレカシの歌がこころを掴んで離さないのはなぜか、ということを説明できたとする。それはきっと、「この」体験を矮小化・陳腐化したものになってしまうだろう。しかしそこに何がしかの核心らしきものは含まれているだろう。


というわけで説明してみることにした。


世の中にたくさん「いい歌」「いい言葉」「いい音楽」があって、それを聴いて人は感動する。僕だってよく感動する。
エレカシの歌を聴いているときの感覚は、どうもそれらと違う。


宮本が「A」という歌詞を歌うとき、それは「宮本×A」として感じられる。
たとえば、「愛想笑いにまぎらす」と歌うときは、宮本が愛想笑いをしているように感じられる。
「振り返ればまぶしく」と歌うときは、実際まぶしそうに聞こえる。
「指でなぞるこの夢」と歌うときは、地図と指と宮本のまなざしが、もどかしさを伴って感じられる。
僕にとっては、きわめてシンプルである。


いきなり、説明になっていないのかも知れない。「歌ってそういうもんやろ」とか、「言葉はそもそもそういうもんやろ」とか、僕も思った。しかし、感じられたものを丹念に振り返ると、なにかが違う。この過剰な「宮本感」に相当するものは、普段「田中感」や「山田感」などとしてそうそう感じられるものではない。


それは一言で、「人間のなまなましさ」とでも言えるだろう。たとえば、親や、中学から付き合ってる友人や、嫁さんというもっとも近い人間との言葉のやり取りで、ある瞬間にだけ感じられるような、むきだしの他者同士の接触だ。必然的にそれは、僕だけの、きわめてプライベートな種類のものだ。


そうして、僕の私的領域を侵食し、無遠慮に踏み込んでくるその「なまなましさ」を、受け流すことはできない。拒絶するか、おなじような「なまなましさ」が僕の中に惹起されることに身を任せるか、どちらかしかない。


宮本の歌を聞き、その干渉を受入れ、そのつど何かが小さく解き放たれるのを感じる。冒頭の疑問の答えは、この一連のプロセスが僕には欠かせなくなっているから、というものだった。いまのところは。


"きづな"を聴いているとこんなことを書きたくなってしまった。みなさんはどうでしょうか。