MJで思い出したように更新

最後に書いてから3ヶ月もたっている。
その間、カウントダウンがあり、シングルの告知があり、インタビューがあり、アルバムの告知があり。絆のリリースがあり。


僕はというと、随分と働き、また随分と仕事以外の本を読んだ。この相関はわれながら不思議だけど、振り返るとなにやら異常なテンションだった。
何を読んでも、宮本に重なってしまうのはいったい何故か。ひとつのフレームワークにとりつかれる、すなわち老化現象かも知れない。


例えば「アンナ・カレーニナ」のリョーヴィン。この小説で、一番好きな登場人物がリョーヴィンだった。(僅差でオブロンスキー。)

―第三編3―
ところが、リョーヴィンは自分でも認めている欠点、つまり、万人の福祉に対する自分の無関心を弁明したかったので、なおも続けた。
「僕が考えるにはですね」リョーヴィンは言った。「たとえそれがどんな活動であっても、個人的な利害に基づいていなければ、強固なものにはなりませんよ。これは普遍的な、哲学的な真理ですからね。」

「弱き人のその肩に優しい言葉もかけられ」ない宮本も、こう弁明するだろうか。
他にも、

―第三編4―
《とにかく肉体労働が必要なんだ。さもないと、おれの性格はすっかりだめになってしまう。》

―第三編32―
彼は何を見ても、ただその中に死か、死への接近だけを見るようになっていた。・・・。暗黒がすべてのものを彼の目から覆い隠してしまった。しかし、ほかならぬこの暗黒のために、彼はその中の唯一の導きの糸は、自分の仕事であることを感じ、最後の力をふりしぼって、それをつかみ、しっかりとそれにしがみついたのであった。


また、例えばハイエク「隷属への道」。

―第十四章―
現代の世代は、道徳は必然的に個人的な行動にかかわる現象である、ということを忘れかかっている。だが、他にも忘却の危機にさらされている事柄がある。それは、各個人が自分自身で決定する自由を持っていて、しかも道徳的な規範を遵守するため、個人的な利益を自発的に犠牲にすることを求められる分野においてだけ、道徳は存在できる、ということである。・・・。個人の責任が問われないところでは、善も悪もなく、道徳的真価を試される機会も、正しいと思うことのために欲望を犠牲にすることで自らの信念を試すチャンスもない。

実際のところ、日本に「自分自身で決定する自由」はあるのかないのか、ムラ社会的な空気を感じるたびに疑わしくなる。個人の責任が問われない特殊日本的な状況では、ここでいう「道徳」は存在しない。正しいと思うことのために自らの信念を試すチャンスもない。「愛想笑いにまぎらす」しかない。


そういうことだろうか。


あるいは、「日本語が滅びるとき」、「反貧困」といったベストセラー。坂口安吾松岡正剛の「ルナティクス」。宮本的な焦燥、摩擦、悲しみ、希望は、古今東西に散らばっている気がする。


さっきのMJは素晴らしかった。歌声にのって、「宮本的」が日本中に降りそそけばいいと思った。もっと広く、もっと密に、もっと静かに。