さよならパーティー(6)空洞としての「パーティー」

(1)〜(5)まで、「パーティー」の意味について思うところを書いてきて、確信を深めたことがある。それは「パーティー」には意味がないということだ。「矛盾するようだが」矛盾しない。結局のところ、宮本は作詞時点では、「パーティー」になんの意味もこめていなかったのではないか、という可能性の話だ。


 それは意味としては空洞で、純粋に音の響きをもとに仮歌から選ばれたのではないか。というのも、宮本の歌う「パーティー」の部分の響きが、僕にはあまりにも「はまっている」と感じられるからだ。(メロディーと合う、三連符的なリズムとあう、「抜けようぜ」という直前の言葉に合う。)また、エレカシの今作ではそういう音の響きを重視したようなカタカナ語が多いということもある。「テロリスト」、「リッスントゥザミュージック」、「ジョニー」、「レソリューション」などなど。


そうだとすれば、宮本にとって「パーティー」とは、単に「パー」という吐き出すような破裂音と、その余韻を引き受けて着地する「ティー」という響きだ。古傷を想い、日常を想ったとき、「もう抜けようよ」という言葉の直後に来るのは「パー!」という発声しかなかった。そこに意味はなくとも、この言葉でなければならなかった。それがなければ、「ふたたび飛び出せ」なかったのかもしれない。


だから、「パーティー」は宮本によって発声され、音として響いている間にだけ、響きの中に意味が込められている。歌詞カード上の「パーティー」に意味はない。そこは文脈の中でぽっかり空いた空洞だ。


一方で、サビの中心はまちがいなく、この「もう抜けようぜパーティ」だ。なかでも、突如三連符的なリズムがあらわれてドライブ感が加速する、この「パーティー」こそが核だ。その核が、言葉として空洞であることが、歌全体の文脈を逆に生き生きと際立たせているのかも知れない。電車の中の男の胸中、いつもの部屋に帰る男の胸中に、思いを馳せさせるのかも知れない。


そしてこの「パーティー」の真空が、僕やあなたの中にあるものを吸い出そうとするのかも知れない。