さよならパーティー(5)「パーティー」に託されたもの
RIJFのステージまで10時間くらい。夜更かししているのは、参加しない(できない)ファンだけだろう。明日少しでも涼しいといいですね。
sakuさんの掲示板で、さよならパーティーについて意見交換がされている。(neunさんの「はじめまして。」というスレッド。)「パーティー」とは何を表しているのか?いろんな意見を読んでて思ったことがあるので、書いてみます。
どの意見も、過去にこのブログで書いた僕の意見とはどこかしら違う。ここで書くのはどの見解が正しい、という話では当然なく、なんというかちょっとした気づきがあって、途方にくれたという話だ。
EKDBさんの「みんな評論家だ!」コーナーのものも含め、みなさんの意見を書き出してみる。
A | 経済的な成功や実態以上にふくれた価値に向けられた比喩 |
B | 虚飾の世界 |
C | パーティーのような賑やかな人の集まる華やかな場所 |
D | 本当は自分がいたくない場所、馴染まない場所(自分が望んでいない仕事をしている職場、他人の目を気にして本心を隠して生きている生活、など) |
E | かつて夢見て、憧れ求めて辿り着いた場所(そして自分が本当に求めていたものではなかったと気づいた場所) |
F | 夢見ていたものがそうでなくなり、方向を見失って空虚にすごしている場所 |
こっそり自分の意見もまぜた。みんな似ているようで違う。似ているというのは、みんなある程度「パーティー」から連想されているだろうから当然として、もっと意味があるのはその違いだ。
どんな言葉だってもちろん多義的だろうけど、A〜Fの違いはそれが極端に出ている気がする。「パーティー」という言葉を、宮本がこう思って歌ってるんじゃないかと、みんなそれぞれに解釈する。そしてそれは議論にならない。「こうこう、こういう文脈があるから、ここの意味はこうだ」と説得しても、誰も納得しない。
なぜなら、それはきっと、そこに当の本人の「抜けたい」「つまらない」が、陰に陽に託されているからだ。それは、普段は言語化できないような感情や記憶だ。エレカシの、この歌の、この部分に託さなければ、言語化できないような何かだ。あの声と音、メロディー、言葉を必要としていた何物かだ。そういうものが、この当の本人たちの中で、書き出されるのをずっと待っていたんじゃないか。と思った。
というか、それはわかっていたはずだったのに忘れていた。
AさんからFさんのうちの少なくとも一人は、できるだけ慎重に文脈を読んで考えた結論のつもりだったが、そういうことを思って少し呆然としたらしい。自分にとって、「抜けたい」場所が実はこのようにあったのかということと、結局それに行き当たるために考えてるだけだったのかということの、二重の意味で。
そして、この歌をめぐってここにこうして書いていることにも、何か別のことが託されているのかもしれない。そう考えると、どうもきりがない。
仕方ないので大げさなオチにする。RIJFでまたこの歌は歌われるだろうか。それを何万人という人が聞き、それぞれの「パーティー」を思い、そこに何かを託したことに気づくだろうか。こういう「自発的な気づき」を多くの人に促す言葉を普遍的といい、その音楽をロックというんじゃないか。そうだとすれば「さよならパーティー」は、普遍的なロックだ。