2013年大阪野音2日目

見事な秋晴れの中、1曲目歴史のイントロが流れて客席が沸いた。
こうして始まった2013年大阪野音最終日を一言で象徴するのが、あるMCでの宮本の言葉である。
「プロみたいになりました」と終盤のMCで宮本は言った。
僕はその時点で、違う言葉で同じような感想を持っていたために、ああと思った。


今日のエレカシは凄かった。
一曲一曲がビシッ、バシッとしていた。
勢いに任せて流れていくようなシーンが一瞬たりともなかった。
タイトで伸びやか、自然なひろがりの中に徹底した集中力。
すべてがキチンと構成されていて、各演奏自体が「作品」だと感じられた。
そしてなによりも、宮本がそこにスッと立って発声している時の佇まいが違った。
存在の重みが場を引き寄せているような、迫力、迫真力、オーラ。人が生きる時に実は熱と光と音を発しているのだとすれば、今日の宮本のそれは目に見えた。


いかにも興奮して大袈裟に書いているようだが、いたって冷静に思い返して書いているのである。
そういえば、石くんの緑と赤に染め上げた長髪もなにやら神がかって見えた。
横を向いてヘッドバンキングしている時には、神楽のように見えたものだ。


総じて今日のエレカシは、僕にとってこれまで何度も聞いてきたバンドが大阪市中央区で演奏するのを再び聴く、という単なる事実を、唯一無二で固有の初経験へと異化させた。
つまり、聴き慣れた曲を初めて聞いたかのように感じさせ、まだ聴きなれない曲を衝撃的に受け止めさせた。


歴史、新しい季節へ君と、四月の風、涙を流す男などから始まり、デーデですら、え?という驚きとともに聞かれた。
あえて分析すればこうだ。
僕なんかはこれらの歌の歌詞・メロディーはもちろん、ドラムの一音、ギターの一音、それらのライブでの主なアレンジに至るまで、大抵はそらんじているわけである。
よって、普段これらの演奏を聴く時には、きっと無意識に脳が音を「先読み」してしまい、その後を実際に鳴らされた音が耳から入って脳はそれを「再認識」する、という聴き方になっているだろう。
ところが今日起こったのは、「知っているはずなのに脳が先読み出来ない」という状態だった。
いま鳴っているバンドの音が、宮本の声が、その振る舞いが、あまりに高密度であったために、脳がその瞬間の受容にかかりっきりになったのである。
僕は次々と鳴り行く音に、その各瞬間の勢いに、身を任せる他なかった。
そのために、20年来聞いてきた歌が、また最近ヘビーローテーションで聞いていた曲すらが、驚きと衝撃の楽曲に変貌してしまったのだ。


さてそこで、次のようなことが当然予想できる。
僕など比べものにならないほど各曲の全体のディテールを熟知しているのは、他でもないエレカシと宮本であろう。
当然、ある部分を演奏している時、次にどうきてどうなるかがイメージされ予測されながら演奏されるものだろう。
しかし、その先を熟知しつつ、あたかもそれを知らないかのように、今、この音この言葉だけを発する、と意識されていたとしたら。
それがビシッ、バシッという感覚につながらないだろうか。
すべてが計画され構成されつつも、瞬間には強い迫真力を生みださないだろうか。
予定調和のなかの驚きの連続、という僕の経験を説明できないだろうか。


僕はバンド経験がないので分からない。


分かるのは、今日のエレカシは本当に凄かったということである。