笑ってない「ファイティングマン」

ずっとあの映像ばっかり見ている。
思えばこれをはじめてみたとき、バカみたいに感動してこの記事を書いた。
ファイティング40代〜NHK-BSのエレカシライブを見た
去年のアルバムツアーも、(大阪)野音も、武道館も、先だってのツアーも、すべて同じ系譜にある。僕にとってそれは、町丘以前のコンサートではなかなか感じなかったようなものだ。

ロッキングオンジャパンのインタビューで、「町丘では、一生懸命歌っているんだけど、どこかで歌声が“笑っている”のが不思議でしょうがなかった。今作ではひとつも笑っていない。それが嬉しい」などとある。歌声が笑っているっていうのが気になって、どういうことなんだろうなぁと考えていた。

聴いてて、町丘以前とスタオバ以降では、歌声の「何か」が違うという感じはあるがよく分からない。たきさんが「ちょっとひいた感じ、薄紙の覆い一枚分の隙間」という形で表現されていて、なるほどと思っていたところ、Youtubeにあがっている各時期のファイティングマンを聴いていたら、それらを比べると「声が笑う」という感覚により近づくことができるような気がした。


例えば、これは2006年町丘ツアーのファイティングマン。

C.C.レモン映像の3倍くらい声が出ている。そして、「笑っている。」


もっとさかのぼって、これは2001年の野音

さらにさらに、声が出まくっている。そしてこれも「笑っている。」MCがおかしいとかではなく、声が笑っている。


僕は一時期脳みそが筋肉化していた人間なので、スポーツ、競技、肉体に関する比喩が一番しっくりくる。

これらの映像の雰囲気は、圧倒的に力量が違う相手との戦いの雰囲気である。相手が圧倒的に弱いとき、こういう「余裕」が生まれる。逆に相手が圧倒的に強いとき、ダメモト感がこういう「楽観」を生む。そこでのパフォーマンスは力強くはあっても、きっと「予測可能」である。自分の予想以上のことが起こる瞬間はなかった。


しかし、あの去年の映像は違う。決して笑っていない。

あらためて見ると、もう全然ちがう。別ものだこれは。

0:30付近の眼、僕はこういう眼をよく知っている。競技生活の終わりが近づいたころ、実力伯仲の敵との天王山の戦い。大げさでもなんでもなく、その当時の生き様を表現する最後にして最高の舞台。それを前に、思いつめ、張りつめて、ときに燃えあがりながら、でも悲しげに、なにかが近づいてくるのをじっと見ている眼。

いざそのときになれば、もはやどうしようもない。その舞台の上で、頭と体は完全に分離する。体は爆発しそうなほど自由に動き回るが、頭はやけに冴えて、あくまで冷静に緻密に判断している。決壊すれすれの祈りにも似たような感情が、この頭と体をつなぐ。そこでは、あらゆる映像と音が、ゆっくりとながれていく。そしてときに、予想外の、素晴らしいことが起こった。

僕は、最近のエレカシのパフォーマンスに、そういうものを感じる。覚悟、集中、祈り。緻密で、でも偶然が支配する空間、凝縮された時間。その爆発の予感。それらの感じを生み出す、笑っていないファイティングマン、武道館、「昇れる太陽」、ZEPP大阪に、激しくこころを揺さぶられる。